fc2ブログ

2010年1月の夢

● 女子夢/1月1日12:18

思春期以来、付き合いのあった女子がほとんど総出演の夢。新年早々、なんでまた?

池袋?に下宿のある女子の元を出たり入ったりする。とても懐かしい。その後も色んな女子が、色んな役で出てくる。現実の出来事とは符合しない。

恐怖映画を見終わり、出ようとするところで小学校の同級生とばったり出会う。ひとりで映画を見に来たらしい。ふたりでもう1回見ようかどうか迷う。


● 新興宗教の夢/1月2日12:45

設定は学生時代のようだ。出席しただけで3万円もらえるとの情報で大きな体育館に行ったら、おおぜいの人が整然と並んでいる。

じきに色んな儀式が始まり、指示に従い、いろいろ運動させられる。最初聞いてた話とちがい、なかなかハードだ。教祖の話をまじめぶって聴くふりをしなければならず、苦痛だ。集団のなかに昔の友人の顔を見かけるが、話しかけられない。

施設のなかを歩いていたら散髪屋がある。散髪の色んな体位を写真入りで解説したパネルを見る。

東京湾?で、中が空っぽの船に乗っている。窓から見える敵の船を追尾しているらしい。

夢の中ではひとつながりの波乱万丈の物語のようでワクワクしたが、起きてみると、断片しか残っていない。


● ネコに肉薄される夢/1月7日15:53

まわりに動物がたくさんいる。サーカスみたい。屋台の小さな引き出しを開けると、中に置物のような小さなネコがたくさん入っている。みんな生きている。

そこに手を入れ、何匹か取り出してみる。すると豆みたいに小さなやつが指や手に食い込んでくる。恐怖で目が覚める。

そのあと何か大冒険が始まるのだが、あいにく全部忘れる。


● 不定詞を教える夢/1月9日13:20 

数人に不定詞の用法を教えないと、かれらの身に危険が及ぶらしい。場所は大きな病院かどこか。

とはいえ、いざ不定詞を教えると言っても、適切な例文がなかなか頭に浮かばず、焦る。to 不定詞でいいんだろうか?などと必死で考える。

病院に巨大な陰謀が張り巡らされているようである。


● 演劇部の夢/1月11日14:43 

仲間5〜6人と演劇をするらしい。居酒屋みたいなところで畳に座り、喋っている。隣りに色の白いフランス人の可愛いコがいる。まだティーンエイジャーみたい。

いつの間にか全員ゴロ寝している。隣りのコといちゃいちゃし始める。あまりに気持ち良くて途中で目が覚める。二度寝してみたが、ダメだった。


● 匂いの癒しの夢/1月12日14:45

知り合いと、年長の学者と、オレの3人で議論をしている。夢のなかの議論の曖昧めいたところはなく、しごく明確な論旨を交わし合い、スコンと結論が出る。あまりに呆気なく、夢のなかで意外の念に打たれる。

早朝の仕事があり、深夜、長距離列車で移動する。ゆうべは温泉で早く寝、朝は5時起きするつもりだ。なにか特別の権利を得、折り畳み式の真っ赤なリクライニング・ベッドを供与される。これを列車のなかで広げ、毛布をかけて寝そべると至って極楽だ。周りの乗客は普通の席に座ったまま寝るらしい。

体育館の高いテラスに私の洋服がバラバラにかけてある。それを集めてきて戻ると、下では授業のようなものをやっている。昔のちょっとした知人が、多くの人を集め、匂いとは何かを講じている。まるで専門外なので、怪訝に思い、後ろから様子を窺っている。

長い机にずらっと薬瓶のようなものが並び、みんなでこの匂いを嗅いで行く。「たとえば胃腸の様子が思わしくない人はこれを嗅ぐとよい」と言うので、なんとはなしに目の前の瓶の匂いを嗅ぐと、独特の香りがし、ずんと胃腸に来るような感覚がある。これは確かに効きそうだ。匂いで人を癒す治療を試みているらしい。そんな医療があってもいいかも、と夢のなかで考える。


● 森の心臓の夢/1月14日12:16

最初はサスペンス風の夢を見ていた。よくできた映画のような感じ。

その後、別の夢。夜明け間近の荒涼とした土地で、バスを待っている。いっそ平地を横切り、目的地に出かけようとする。向こうから表情のない男が歩いてきて、すれちがう。いやな感じがする。

人びとが集まって騒いでいる。森の心臓が見つかったという。おそらく『アバター』の影響らしい、巨大な樹の根が目の前にある。薄青く、ところどころ黄色く光り、しずかに鼓動している。これが森の心臓で、同じようなのがどこかにあと3つ隠されているという。


● 教育学の夢/ 1月20日12:05

息子を亡くした父親が一念発起して学問し、教育学の本を書いたとかいう話だ。

手に取ってみると素人じみたところはなく、やたら体系的で百科全書的だ。教育学というより、国家論・文明論のような体裁を成している。デリダのことがどこかに出てくるとか言うので探してみたが、見当たらない。膨大な情報が盛り込んであるが、書かれている内容に馴染みがなく、入り込めない。

この本が書かれた学問環境を追体験するような時間の旅がはじまる。髪がぼさぼさで小柄の、ひどく優秀な神童みたいなやつが出てくる。どこか旅行地に色々な国籍の学者たちが泊まっている。設定は大正時代あたりか。もっとも場所は日本なのか外国なのか、はっきりしない。女郎屋みたいなところで、抱き合って寝ている者たちがいる。

火山岩の地形で、かつては火口だったところに水が溜まり、深い池になっている。夜、学者たちがグルッと取り囲み、中を眺めている。ふざけて中に転げ落ちそうになる者もいる。

夢のなかで書物と現実を重ね合わすようにして、途方もなく膨大な情報が流れている。ひどく面白い。起こった出来事を脳裏で何度も反芻し、覚えていようと努める。この一文はその結果、記憶に残った部分である。


● 西部劇の夢/1月27日14:44

見知らぬ家に入り、2階で勉強している小学生にラーメン屋「一品香」の場所を尋ねると、懇切ていねいに教えてくれる。

はるばる歩いて行くと、いつの間にか西部である。オレはガンマンだ。いろいろな事件が起こるが、最後は命をつけ狙う相手を決闘で撃ち殺す。BGMとして「はるかなる西部」がずっとかかっている。

ボロ小屋に「Yourhistory」という本だかパンフレットだか看板だか判らぬものが置いてあり、「あなたの歴史」と訳してあるが、これは要するに「大衆史」のことだぜ、と地元のやつに教えてやる。


● ヒトラー列車の夢/1月28日14:17

ヒトラーのいる列車に乗る。これを列車内で追跡するも、なかなか見つからない。大活劇である。

他の場所に移り、追跡行はつづく。驚天動地の出来事が次々に起こるが、きれいさっぱり忘れてしまう。


● 夢のなかのキャンパス/1月30日14:00

夢のなかで学生さんに付き合って、学校の近くの食堂に行く。すると明治時代にできたような石造りの立派な建築だ。みんなここで食べるらしい。なるほど美味しそうだ。

見たこともないアメリカ風のキャンパスだ。学園祭の準備でもしているようだ。

デジカメを借りて、外の様子を撮影する。モニターの写りがやけに鮮明だ。訊くと、ニューヨークで100万円で買ったという。道理で、と納得する。

青春の終わり

サリンジャー死す。てか、青春時代には猫も杓子も読んでいた。だもんで、バカにして読まずじまい。ハルキの翻訳でも読んでみるか。

というのも今年「青春とは何か、何だったか」というテーマを巡って文学論を講じてきたわけだが、サリンジャーこそまさに20世紀の青春文学の巨匠だった。文学と青春の関係について考えるうえで必読の書にはちがいない。青春という切り口で文学史を振り返ると、近代とは人類にとり青春の時代だったという事実がはっきりする。

ベトナム人の留学生がハルキ『ノルウェーの森』の感想を達者な日本語で書いてきた。日本に来て3年目だという。工学部なのに、感心する。そこらの文系より遥かに賢い。ま、当たり前か。日本の未来はアジアの若者の手に握られている。

さて、この小説の主題は性と死(自死)だ。留学生くんが指摘するように、これだけ性描写が溢れているのに、主人公たちはいっこうに楽しそうじゃない。てか、むしろ苦しげだ。つまり性は歓喜に至る道ではなく、現実の苦痛から逃れるための逃避の手段なのだ。セックスするか、自死するか。そのとき性は死の擬態にすぎない。意識を失うことで現実から逃れる。

ところが言うまでもなく性は生そのものでもある。ハルキの主人公たちは生をそれ自体として肯定できない。それが青春であり、ひいては近代というものだった。そう言えなくもない。

いいかえれば、成熟するとは生をそれ自体として肯定することだ。そのような大いなる肯定に到達するには、青春を超えなければならない。その方途を模索するには文学を読むべきだ。決して哲学ではない。

というのも哲学的主体は病むことも老いることも知らない。ようやく最近、自分は死ぬという重大なる事実に気づいたばかり(笑)あまりにナイーブ。

老いて病んで死ぬことこそが人類の運命である。その全体性を視野に入れねばならぬ。これまでの哲学はあまりに狭い。文学から大いに学ぶべきである。

で、そのあげく私たちが到達すべきは哲学でも文学でもない、もっと広大な思索の領野である。考えるべきことはあまりに多い。

検察こわい



こ、これって、もしかして。。




うわ、やべ。見つかったかも。




きゃあああ、怖い!




やっぱり中に検察の人が入ってた!




オレに付いて来いだって。鼻くそ〜

カップ麺をすすりながらアジアの時代について考える

この頃のカップ麺の勢いは見逃せない。あれこれ買ってきては食べ比べている。いずれ特集を組む予定だ(笑)本日はコレ。

● 中華そば ますたに@京都北白川/日清食品

京都の古い名店「ますたに」。北白川および今出川に店がある。銀閣寺のすぐそば。1度立ち寄ったことがあるが、濃厚な背脂醤油ラーメンで、その感じはソコソコ再現されている。ただあそこの魅力は濃厚なスープと薬味のネギのコントラストにあるとオレは考える。そこらはカップ麺じゃ無理。てか、元来それほどスゴイ店でもない。残念。

東京と地方のラーメン格差ってやつは、いまや途方もない。地方の有名店はたいがい東京進出してるし、東京で生きるか死ぬかの激戦をくり広げている。そこで生き残っている店は、とんでもない水準に達している。未来の日本料理とは、まぎれもなくラーメンに他ならない。

21世紀の日本の外食を考えるとき、ラーメン産業は象徴的な意味を持つ。以前は下層大衆の食文化だったものが、不況下でいまや中流の主食級の地位を獲得するに至った。対照的に、これまで上流と見なされてきたフレンチや和食は急速に没落している。

これはユニクロが独り勝ちし、アパレルが壊滅状態に陥りつつあるのと軌を一にする。主人と奴隷の闘争において、いよいよ奴隷が全面的な勝利を収めつつある。

ところで、奴隷の覇権の時代とはアジアの時代でもある。

戦後日本の支配階級は、自動車や家電など、欧米にクオリティーの高い製品を売ることで成功を収めてきた。外需が日本経済の柱だった。品質の高いモノ。高くても良いモノ。そんなぴかぴかしたモノへの欲求が世界経済を牽引してきた。欧米の価値観が世界を席捲した。

アジアの時代に要求されるのは、これとは全くちがう。どんなに良さげでも高いモノは相手にされない。多少品質が劣っていてもノープロブレム。安くて用を足せばよい。デフレ化の背景にはこうしたアジアの台頭がある。アジアの欲望はヨーロッパのそれとは全然ちがう。前者が後者を呑み込みつつあるのが現状だ。国内においても同様の事態が起こっている。だから金融政策によっては状況はちっとも変わらない。デフレ化は止められない。

こうした自動車とか家電とか生活必需品とは異なり、一方で情報産業が途方もなく高度化している。テレビはもはや家電というより、コンピューターのモニターの一変種になりつつある。こまごました部品の寄せ集めというより、極度に高度なプログラムにより作動する。これはテレビにかぎったことではない。自動車や家電もまた、今後ますます情報商品化されて行くだろう。部品の塊としてのモノではなく、情報の束としての商品に私たちは取り巻かれつつある。

情報技術の先端で覇権を握る者が世界の産業全体を支配する世が来る。情報を制する者が経済を制する。で、古いモノづくりの美学に拘泥する日本は、この流れに徹底的に乗り遅れている。

世界をモノから見るか、情報から見るかで、その見えかたは全然ちがう。日本人は世界をモノの集合としてしか捉えられない。それは部品から世界を見る見かたである。逆の言いかたをすれば、無数無限の情報流の束として世界を見る哲学を私たちは持たない。多様な流れの総体として世界を捉えることができない。それゆえアジアの奔流から取り残され、澱み、停滞している。

それはたんなる経営努力や才覚の問題ではない。まさに哲学の問題、世界観の問題である。新しい世界が新しい哲学を求めているのに、日本は古い世界の古い哲学を墨守しようとする。流れとは逆に進む。没落は避けられない。

欧米相手の商売をこのまま続けられるというならまだしも、リコールによる米国でのトヨタ車の一時販売停止を見ても判るように、かつての生産水準を保つことすら難しくなっている。アジアもダメ、欧米もダメなら、どうしようもない。

経済規模を縮小し、アジアの片隅でひっそり生きて行ければいいんですぅ〜などと言うのはたわごとにすぎない。グローバル化時代とは世界全体が中心となる時代である。というか、それこそがグローバリズムの定義である。もはやどこにも辺境など存在しない。閉じた社会は木っ端みじんに破壊され、覇権を握る国家の奴隷とされる。一度奴隷となってしまえば、主体性を回復するのは難しい。

これはまぎれもない国家の危機、民族の危機だ。にもかかわらず、それに気づいていない人たちがほとんどだ。あいもかわらず、アメリカさんに付いて行けば何とかなる、その程度の認識しかない。そんなことでは一蓮托生で衰亡する。アメリカは人類の未来などではちっともない。その事実に気づくのが遅れれば遅れるほど、日本の没落は早まるだろう。

蕩尽亭のご案内

え〜、ここらで目下の蕩尽亭のご案内をさせて頂きますと――

● 長文記事は表の「蕩尽ブログ」

● 短めのメモの類いは裏の「つぶやき掲示板」

● ごく短い呟きは「蕩尽ツイッター」
http://twitter.com/devenir21

● 画像関係は「蕩尽たんぶら〜」
http://devenir21.tumblr.com

以上のような陣営となっております。今後ともご贔屓に。

寒中、地方都市遠征記

● 杉浦非水の眼と手@宇都宮美術館

なんせ遠い。去年の暮れから出かけようとして果たせず。杉浦非水展がいよいよ日曜まで。意を決して都を出る。とはいえ、前夜もつい夜更かし。寝過ごして、起きたら昼過ぎ。美術館は5時迄なのに間に合うか?

上野で3時14分の新幹線の切符を買おうとしたら、電光掲示板に出ていない。不審に思いつつ用事を済ませ、次の3時26分の便を確認したら、これも目の前で消えた。

驚いて駅員に問い質すと「地下ホームまで時間がかかるので、発車7分前には表示が消える仕掛けになっている」とほざく。唖然茫然。んなの、大きなお世話というもの!ざけんな!いくら地下とはいえ、健常な男の脚ならせいぜい1〜2分。これなら1本前のに乗れたよ。

乗り遅れた客からのクレームを恐れ、駅側の自己保身のためだけに客の目をたばかる表示を行なう。時間という真実を歪めて平然としている。これが今の日本の官僚体制の本質というもの。真実など、どうでもいい。自分らの組織の都合と保身が最優先される。中世の暗黒社会も顔負け。一抹の理性の光すら届かない。

おかげで予定が大幅に狂い、駅前からタクシーを飛ばすことに。宇都宮美術館というからには駅からさほど遠くあるまい、などと大いなる錯覚をしていたオレ。地図にも近そうに書いてある。この国には客観的情報というものが存在しないのか!すべての情報が何らかの組織に都合よく歪められている。

市街を離れ、どんどん深い山の中に入って行く。メーターがたちまち2千円を超え、さすがに、おののく。このまま遠い国まで誘拐されちゃったらどうしよう。

「まだ随分かかるの?」と運ちゃんに訊ねたところ、「ここは最近まで山だったんです。世間並みの美術館を持ちたいというだけで安い土地に作っちゃったもんだから、やたら遠いんですわ。お客さんも集まらない。ここの文教政策はなってないんです」と言う。

「戦前に濱田庄司が来てくれたおかげで、益子焼の名が高まり、全国から人が集まるようになったでしょう。そんな人を呼ぶ発想が全然できない。ほら、あのイギリスのひと、バーナード・リーチなんているじゃないですか。私、好きなんですよ」

えらく教養のある運ちゃんなのだった。救いようのないバカがお役人になって権勢を振るい、教養ある紳士がしがない運ちゃんをやってる。思えば、今の日本はそんな社会だ。教養がゴミ扱いされている。精神性が足蹴にされ、モノと経済の論理だけがまかり通る。

で、着いたのは閉館30分前。結局2600円かかった。財布に数千円しか残らない。あわわわ。こんな山の中で。。

展覧会自体は素晴らしい。これだけ高水準なのに、さっぱり宣伝を見かけなかったな、と考えてみたら、そっか大新聞が関わっていない。だから黙殺されたのだ、と思い至る。いやはや途方もない情報管理社会だ。

で、杉浦非水という才人、さすが黒田清輝に愛されただけあり、生まれながらに絵がとても上手い。こういう人は好きだ。持ち前の卓越した描写力があったからこそ逆に、ちんまり絵を描くより都市生活をデザインすることに関心を持ったのだろう。非水にとり世界は装飾的だった。そのデザイン思想の根底には植物の持つ柔軟性・増殖性・偏在性がある。世界は植物により装飾される。装飾こそが表現の本質だ。

1回通して見て、さらにもう1回見直し、いよいよ閉館時間を過ぎようとする頃、第2展示室があることにようやく気づく!

第1展示室の出口に画家の年表が掲げられていたので、展示はここまでと思い込んだ。ちょうど出たところに第2展示室があるのに気づかず。もうアフォか、バカかと言いたい。不親切きわまりない。ふつう「次の部屋につづく」とか矢印の表示があるべきだろう。でかでかと年表が出てたら、ここで終わりだと誰もが思うよなあ。

警備員の制止を振り切り、無理やり1通り見て回る。ここまで辿り着くのにオレは新幹線4000円+タクシー代2600円と、約7千円を費やしているのだ!元を取らずに帰れるかああ!悔しいことに第2展示室の植物の絵のほうがはるかに良いのである。

カタログ(2500円)も美麗で、惚れ惚れするような出来だ。あと数部しか残ってないと言う。にもかかわらず現金がない。カードも使えないとか。店員が「現金書留で後から代金を送ってくれればいいです」と言うので、ご親切に甘えることにする。

黒服の館員総出で送り出されたのはいいが、5時15分のバスに乗り遅れ、次は55分までないと言われる。明かりもなく、暗く深い森の中である。冷たい寒風がびゅーびゅー吹きすさぶ。こんな真っ暗な山の中で40分も待たされたら命がない。生命の危機に怯える。オオカミの群れにでも襲われたらどーすんだ!凍死する者が出ても不思議ない。

幸い美術館付属のフレンチ・レストランが遅くまでやってて、そこで380円のコーヒーを飲みながら時間を潰す。こんな辺鄙なとこ、自家用車でもないかぎり、とても来れないよなあ。なんとも寒々しい。


● 鯛だしハーブ風味やわらかほっぺた塩らーめん@どる屋

帰り道にバスを降り、ひさしぶりに「どる屋」に寄る。「鯛だしハーブ風味やわらかほっぺた塩らーめん」(800円)を頂く。まさに至高&至福の一杯。7千円も無駄金を使い、ここまで来てよかった、むくわれた、という熱い思いを抱く。

たっぷりした厚切りの豚のほっぺた肉がチャーシュー代わりに3枚浮かんでいる。初めての食感。とろけそうなほど柔らかい。それと、ここのは地産のネギがとても美味い。満喫す。この店は宇都宮の宝だ。


● ノロウイルスにやられる

駅前のタリーズコーヒーでコーヒーを注文したら、ヘンな味がする。店員に文句を言おうと思ったほどだが、まあいいや、とガマンしたのが大間違い。だんだん吐き気がするようになった。胃具合がおかしい。

後から気づいたが、ノロにやられたのだ。無念なり。こんな若者向けの店でコーヒーなど飲むものじゃない。思えば、この手の店で体調を崩したのはこれが初めてじゃない。よほどひどい衛生管理なのだが、相手が若い連中ばかりなので、ごまかしが効くのだ。

明日は朝から仕事。それまでに何とかせねばならぬ。近くのスパで体を温めようとするも、いつもとちがい風呂がちっとも楽しくない。食欲も湧かない。酒すら口にしたくない。悪寒がつのるばかり。夜11時には寝、ひたすら恢復に相務める。

翌日はモスバーガーでクラムチャウダーをすする。少し食欲が戻ったので、吉野家で納豆定食を食う。思えば昨日は朝から納豆を食ってなかった。それでノロにやられたのだと勝手に納得する。やっぱり朝は納豆。それと梅干し。2度とタリーズなどに足を踏み入れるかヨ!


● お仕事

土曜の晩、冬休みのレポートにひと通り目を通し、良かれ悪しかれ個性を感じさせるものを10枚ほどピックアップ。授業内容とかけ離れていても、さほどこだわらない。該当個所を切り貼りし、コピー2枚ほどにまとめておいた。これを授業冒頭で配布。どこが良くて、どこが不十分かを子細に解説する。自分の考えも述べ、成績評価の基準を示す。なかにこういうのがあった。

音楽そのものが表現しようとしてきている事は、今も昔も全く変わらないと思います。ただその表現される「モノ」が変わっているだけ。世の中は常に変化をするもので、それに伴って表現される「モノ」も変わってきているのです。したがって昔を生きた先生は今を生きる若者とは相入れないのです。それは逆も然りで、私たちは昔の音楽の表現する「モノ」には共感できないのです。これが世代の差なので仕方のないですが、「今の音楽は駄目だ」という価値感を他者に押し付けるのは間違いだと思います。

「昔を生きた先生」という個所に猛烈にカチン!と来る。高倉健さんのように「古いやつでござんす」と自分から言うのはいいが、金輪際お前らに後ろから「やーい!やーい!昔の人だ」と指差されたくない。てか、させん!断固粉砕!

だいたい若いやつにかぎって、何かと言えば世代、世代と口走る。親の世代とそっくりだ。てか、親の口ぐせを鵜呑みにしてやがるのだ。世代という錦の御旗を振りかざし、異なる世代、ひいては他者を否定しようとする。物分かりの良さそうなソフトな口ぶりで、実際には自分らの卑小卑俗な価値感と相容れない崇高な表現を抹殺する。

まあ、こんなこともあろうかと隠し球を仕込んでおいたのである。ジョン・コルトレーン ”My favorite things" のDVDを見せる。去年も好評だったやつ。「人生観が変わった」と書いてきた学生がいた。10数分に亙ってコルトレーンのフリー演奏がくり広げられる。まさに至高の演奏である。教室に恐慌が走る。度肝を抜かれているのが判る。テレビなどでは絶対に流れることのない究極の音楽だ。

コルトレーンのような真の表現者は、世代などというチンケな枠組に自足することは決してなかった。それどころじゃない、あらゆる枠組から自由になろうと生命を賭した。自らの世代から出ることなく真の表現などありえない。そんなことも解らない。いまの若者の考え方こそいちばん古くさく保守的だ。世代に媚びた今の日本の音楽など最低だ、ようは商売でしかない。世界的に見ても、歴史的に見ても、徹底的に駄目だ、救いようがない、ちゃんちゃらおかしい。

若者に絶対的な価値観を、いいかえれば「権威」を示すのが先に生まれた者の役割である。権威なき教育などありえない。で、権威とは自らの生き方で示すものだ。オレは世代意識などに甘んじたことは1度もない。だから自らを権威として示せる。

授業後、学生さんが何人も来るも、言うべき言葉が見つからないようだ。口をパクパクさせている。まあまあ、時間をかけて自らの言葉を見つけたまい。今日はこれで店じまい。がらがらがらとシャッターを降ろす。来週はフロベール。写実主義とはリアリズムや物質主義の対極にあるものだ、という話。

そのあとフランス語を2コマ。いいかげんヘロヘロだ。


● 駅そば

ここの駅ホームの「かきあげ天玉そば」(420円)はとても美味い。ネギが無造作にドカンと入っているのが実にいい。

ノロウイルスに冒されつつも何とか賃労働をこなし、一安心。からだの具合は快方に向かう。早めに帰宅し、牡蛎フライ、わかさぎのフライをつまみに生酒を飲み、爆睡す。色んな夢を見たが、全部忘れる。

半泥子、ドランテ、オートサロン

● 川喜多半泥子のすべて展@銀座松屋(1月15日/金)

試験を終わらせ、その場で即日採点、採点簿も提出。銀座に駆けつける。

気づけば会期終了間際。多岐多様にわたる半泥子の仕事を一所に集めてみせた、みごとな展覧会である。場所柄もあってか、客が多い。みな熱心に見ている。

自由奔放にして融通無碍、ちょっとした向付や酒器・茶杓に至るまで、俳味に溢れている。いいかえればユーモアに富んでいる。

とにかく手当たり次第に何でも手を出していることに驚嘆する。俳画は当然として、油絵から水彩から素人写真まで。いずれも趣味に徹したところがいい。余裕があって、高踏的。俗に流れない。執着しない。

茶の心とは本来こうした風雅なものであるべき。半泥子が自ら称した「無茶」とはこの点にかかわる。茶の本質は逆説的なことに〈無−茶〉にある。約束事に囚われない。拘泥しない。自由気ままな創造。


● ドランテ、ピアノ・ソロ・コンサート@すみだトリフォニーホール

銀座松屋を6時半に出、あわてて錦糸町へ。スペインのピアニスト、ドランテのコンサートである。なんとか間に合う。

フラメンコ・ギターなら珍しくもないが、ピアノでフラメンコするという。一体どうやるの?と興味を持った。会員割引もあり、2700円。安い。前から3列目。

やっぱソロは無理らしく、パーカッションを1人従えている。それとの掛け合いがあったほうが遥かにいい。独りで演奏した曲は退屈だった。フラメンコが本来持つ、猥雑で、禍々しい凄みがちっとも感じられない。しごく都会的で、お上品なひと。

ジムで一風呂浴び、帰宅。生酒を舐めながら、送られてきた冬休みのレポートに目を通す。カリキュラムのせいか、今年の受講者はやたら理系ばかり。「最初はいちばん後ろの席に座っていましたが、話がよく聴き取れるように、だんだん前に座るようになり、気づけばいちばん前の席で授業を聴くようになっていました。むずかしい内容を噛み砕いて説明してくれるので解りやすいです」だって(笑)愛いやつ。

ま、若いやつもピンからキリまでヨ。ピンはどうとでもなる。問題はキリのほう。知的にも道徳的にも、血の行き渡らない末端の壊死の現状は凄まじいものがある。それが相変わらず放置されているので、ついに全身に毒が回りつつある。

高踏な知識人の皆さんはそんな下々の現状など、とんとご存知ない。十年一日のごとく、ありうべき近代化の美学を振り回す。欧米のことしか見ない、見えない。足下を見ない。自らを振り返ることをしない。まさに亡国の徒だ。


● 東京オートサロン@幕張メッセ(1月16日/土)

ああ、すべすべ、ぴかぴか。光りもんはええ。おじさん、幸せ。

ゴミだらけの人生

● ゴミだらけの人生

♪ 何から何まで失せ物だらけ
♪ 意地でも見つからぬ物ばかり。
♪ いやだ、いやです、お天道さまよ〜
♪ 右を向いても、左を見ても
♪ ゴミと書類のからみあい。
♪ どこに無くしたブツがある〜

いやマジ、この状態ではにっちもさっちも行かない。ちょっと後回しにすると、たちまち何がなんだか解らなくなる。だからと言って、なんでもかんでも捨てまくるわけにも行かぬ。保存さえしておけば、後から発掘するのは可能、それは事実だ。これでわ、ゴミ屋敷になるのも当然至極なり。

情報化社会とはゴミ社会なのだ。

こうなると部屋のデザイン自体を変えるような、根本的な対策が必要と思われる。


● 片づけとは戦争である

地球と同様、部屋の大きさは限られている。無限の部屋などというものはない。ゆえに限られたスペースにおいて、どこまでを支配に置けば勝利と呼べるか、まずそれを予め限定せねばならぬ。

絶対的な勝利を求める戦争は絶対的に敗北する。勝利はつねに相対的なものにすぎない。あくまで将来における敵との妥協を前提としたうえで戦闘を開始すべきだ。どこまでを我が領とすれば勝利と呼べるかを自分の側で前もって定義する。成り行きまかせにしない。

この点から言うと、検察の小沢攻撃は過去の日本軍同様、絶対的な勝利を目ざしている。そのあげく中国大陸におけるのと同様、ぐだぐだの消耗戦に陥っている。かつての亡国の教訓が官僚社会において何ら活かされておらず、いまや明らかに国益を損なうに至っている。これを反社会集団として厳しく弾劾せねばならぬ。

それはさておき、部屋の片づけである。全部片づけようとすれば、何ひとつ片づかない。とりあえずここまでと、はっきり目安を決め、それに合わせて戦略を練る。物資として何が必要か。何を捨て、何を残すか。残すモノはどこへどう移動すればよいか。スキームを組み立てる。どれほど明確に絵を描けるか否かが勝敗を分ける。

そんなわけで、ようやく必要な書類を発見しる!部屋もちょっぴり片づき、この後なにが必要か、どうすべきか目処が立った。勝利の日は近い。

多摩探訪

煮干しラーメンで評判の八王子『圓』を訪ねて行くが、なんと、よりによって休み。

がっかりしながら八王子をぶらついていると、古くさい古本屋(同語反復だが)を発見。店頭の岩波文庫の品揃えがすごい。ブックオフあたりと比べると外見こそ汚いが、めったにない拾い物が多々ある。ダーウィン『ビーグル号探検記』3冊揃い1000円を買う。それとホメロス。

店内を物色していても、独特のこだわりが感じられる。妙に観念的ではなく、自らの趣味を中心に手当たり次第に何でもごちゃごちゃ集めている。おもちゃ箱のような感があり、それが人肌の温もりを作り出している。番台の話し好きな店員さんに訊くと、この地でもう30年もやっていると言う。

いやはや八王子には時に驚かされる。思いがけぬ店に出会うことがある。ふところの深い街である。

その後、つけ麺桜みち@立川ラーメンスクエアで、さんま風味つけめん(大盛り)を食す。

やたら魚粉がぶちこんであり、つけだれが粉っぽい印象。さんまの香りがさほど感じられない。菜@本八幡のさんまの扱いの巧みさを知っている者には、これではもの足りない。もっとも750円で、大盛り無料というCPの良さがあり、文句をつける謂れはない。

いつ行ってもガラガラだが、ここのラーメンスクエアって、コンセプト作りに失敗していると思う。マンハッタンの街並みをモデルにした(!)とか言うのだが、ラーメンとマンハッタンがどう繋がるのか不明。てか、つながるはずない(笑)統一感が感じられず、雑然とした印象で、客が入りにくい。

「桜みち」だけが突出している印象で、これだけ実力があるなら路面の個別店舗で勝負したほうがいいのでわ?

神田の霸王「つけ麺もといし」

● つけ麺もといし@神田

雨のせいか、珍しくすいてる。かねてより懸案の「やきじろう」(780円)をいただく。

「二郎」を焼きラーメンにするというアイデアがとにかく素晴らしい。無料トッピングのタマネギや、揚げニンニク、特製の十七味、魚粉、酢、ラー油などをぶちまけ、はふはふ食らう。とりわけラー油が効く。野菜の旨味を引き立たせる。こんな野菜を美味しく食わせるラーメン屋はほかにない。

3分の2ほど平らげた後、供される熱いスープをぶっかける。焼きラーメンがラーメンに変化する。タマネギと揚げニンニクと酢を追加。

麺を平らげた後も、こまごました野菜の断片がごちゃごちゃ浮いてる。ポットに入ったスープを上からどくどく注ぐと、今度はこれが野菜スープになる。

焼きラーメン→ラーメン→野菜スープ、という3段階の味の変化が楽しめる。脳内の痒いところを掻きむしられるような悦楽。ほとんど恍惚とさせられる。無化調なので、いくら食っても後味がさっぱりしている。

ああ、この時代の日本に生まれて来てよかった。はらはら感涙す。ラーメンというジャンルはついに完成の域に達した。パーフェクト!

これだけの感動が、なんと780円で味わえる。7800円取っても不思議ない。それだけの高度な技術と知見が集約されている。それがたったの780円。もはや肥満を気にしているような場合でわ到底ない!食うべし。食うべし。

2009年・旧作映画もふりかえる

映画には封切りしたばかりの新作を映画館に駆けつけて見る喜びもあれば、古い映画を名画座やDVDで見て、自分にとっての名作を発見する楽しみもある。

とりわけ近年、渋谷シネマヴェーラやユーロスペースにおいて過去の名作を組織的に発掘し、上映する試みが行われている。去年は大いにその恩恵に浴した。

感銘を受けた特集や個々の作品については相当量のメモを取ったが、面倒だし、実際のところ時間もなく、アップしないままになっている。いずれ折を見て記事にまとめるつもりだ。書き残さないとすべて忘れてしまう。


● 映画史上の名作2@渋谷シネマヴェーラ

○ ハワード・ホークス監督『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)

なんと言っても去年最高に笑わせてもらった作品が、コレ! 抱腹絶倒とは、このこと。スクリューボール・コメディの大傑作。

Cf. 映画史上の名作『ヒズ・ガール・フライデー』『キートンの探偵学入門』


○ フレッド・アステア『トップハット』他

これを見たのを機に、フレッド・アステア作品をひと通りみた。その直後ツタヤから撤去されてしまった! オレ以外にそんな物好きはいなかったのか? 夜寝る前に見ると、よく眠れる。

ジンジャー・ロジャースとのダンスの絡みが素晴らしい。アメリカのダンス文化の伝統を思う。晩年のアステアはマイケル・ジャクソンと交流があった。ムーン・ウォークをやってみせたりした。


● フランク・キャプラ『或る夜の出来事』(1934年)

スクリューボール・コメディの代表作ということで、ついでにこの作品もDVDで見る。夜行バスを舞台にしているのが今の時代、逆に新鮮だ。

その後ふと思い立ち、DVDになっているキャプラ作品を全部見直す。この監督は映画というかたちで祖国の自画像を描き出そうと努めていて、たとえば『群衆』などを見ると、アメリカが口先ではきれいごとを唱えながら一貫して陰謀により動く社会であることが解る。まあ、それが大衆消費社会の本質というもの。メモを取ったが、アップはしていない。


● ヴィターリー・カネフスキー特集@渋谷ユーロスペース

『動くな、死ね、甦れ!』(1990年)、『ひとりで生きる』(1992年)。この2作でカネフスキーは映画史に残るだろう。去年劇場で見た映画のなかで最も衝撃を受けた作品のひとつ。とりわけカラーの後者がすさまじい(前者はモノクロ映画)。

第2次大戦直後のソ連の混沌とした状況を活きる少年少女の姿を描く。ちょっぴり『泥の河』を思わすところもあるが、生活環境は遥かに苛酷。貧困と暴力と犯罪のなかにロシアの聖性が垣間見える。というか聖性は貧困のなかにしか宿らないのかも。


● キェシロフスキ・プリズム@渋谷ユーロスペース

さほど好きな監督でもない。ただ折角なので、この機会に全部見た。メモをたくさん取ったが、アップしないままになっている。いずれ折を見て、論じてみようと思う。扱う題材は尖鋭なのに、どこか作劇が古めかしい。ポーランド出身の芸術家や文学者には皆そんなところがある。ドイツとロシアに挟まれた土地柄のせいか、ヨーロッパのモダニズムの最後の砦になっているような印象だ。


● 紀伊国屋レーベル特集@渋谷シネマヴェーラ

井口奈己監督『犬猫』(8ミリ版/2000年)を見る。後に同じ監督の手でリメイクされた『犬猫』(35ミリ版/2004年)とは別物。最初の自主制作版が圧倒的にいい。日本の若者がいかに奇妙な都市生活を送っているかがよく解る。リアルだ。

Cf. マイナー映画のために/『犬猫』の改作をめぐって


●「ヌーヴェルヴァーグの50年」@渋谷シネマヴェーラ

クロード・シャブロル監督は『いとこ同士』を見逃している。『美しきセルジュ』はフランスの田舎町の鬱屈を生々しく捉え、今にも通じるようなリアリティがある。名作と呼んで差し支えない。

「ヌーヴェルヴァーグの50年」という企画自体は、あんまり感心しなかった。というのもゴダールはもういいだろ? 正直、食傷している。ゴダールやトリュフォーといったビッグネームを除いたヌーヴェルヴァーグの全体像を見てみたい。周縁のマイナーなものこそが全体の動向を決定する。


● レニ・リーフェンシュタール『意志の勝利』@シアターN渋谷

これまでスクリーンで最初から最後まで通して見る機会がなかった。ナチス時代のドイツ人のエネルギーに感嘆するというか、ウンザリさせられるというか。

Cf. 鳩と野獣/『意志の勝利』を見て


●『赤と黒』

授業の参考にしようと思い、銀座テアトルシネマにおけるデジタルリマスター版での上映を見る。いうまでもなく、ジェラール・フィリップの代表作。細かい時代考証に感心させられる。原作を読むだけでは解らない風俗的な描写が優れている。

個人的には今年はスタンダール再評価の年だった。バルザックは大衆小説だが、スタンダールはやはり純文学だ。近代的自我の原型のようなものをしっかり掴んでいる。


●『喝采』(1946年)

『我が道を往く』『聖メリーの鐘』と立て続けに見て、やっぱビング・クロスビーの声っていいわあ、などと思い、この作品も借りてきた。身につまされて見た。


●『ブロードウェイ♪ブロードウェイ/コーラスラインにかける夢』

日本公開は2008年だが、劇場で見たのは2009年の正月。ほかに書く場所がないので、ここに書きつけておく。『コーラスライン』そのものより、このオーディションのドキュメンタリーのほうが面白いンじゃないか?(笑)


●『エグザイル/絆』

香港映画。おなじく公開は2008年だが、劇場で見たのは2009年の正月。ちょうど1年前。これもついでに書いとく。ぐだぐだした展開が逆によかった。最後の修羅場に痺れる。


●『ぼくのバラ色の人生』

たまたま深夜テレビでやってて、こんな拾い物のフランス映画があったか!と驚く。1998年公開。女の子になりたいと悩むオカマ少年を描く。テーマは陳腐だが、映像がサイケで目を瞠らされる。主役のジョルジュ・デ・フレネは、この作品に出るためだけに生まれてきたかのよう。後に映画版『見出された時』でプルーストの少年時代を演じているが、その後は鳴かず飛ばず。


● アメリカのテレビドラマ

『ER』がついに終わった。『24』はテロリストの正体を見失い、迷走状態に入った。

『ギャラクティカ』は個人的に好きな作品だが、これも宇宙の彼方でダッチロールをつづけ、アメリカでは放送終了。

いま『LOST』の最新シリーズを寝る前に見ているが、もう何が何やら取りとめのない話になっている。住めば都というが、登場人物の皆さんは、あの不気味な島が好きで好きで仕方ないようだ。必死になって帰ろうとしている。とても付いて行けない。

2009年・新作映画をふりかえる(下)国境を越えて

● グローバル化する貧困

貧しさを主題とする映画として印象的だったのが『THIS IS ENGLAND』。サッチャー時代の貧困青年層の生活を赤裸々に描く。ネオナチがどのように支持を広げてゆくのか、そのやり口がよく解る。

今のイギリスは良くなったか、あるいは世界は良くなったかと言えば、いうまでもなく事態はひたすら悪化している。貧困が世界中に広がっている。『スラムドッグ$ミリオネア』にしても娯楽作に仕立ててはいるものの、主題は貧しさだ。監督のダニー・ボイルがイギリス人なのは偶然ではない。先進国においても発展途上国においても、貧困が社会を根底から腐らせている。階級社会のイギリス人はこのことに敏感だ。

貧しさから逃れようと、ひとは自らの国を捨てる。その前に国境が立ちふさがる。国境をめぐるドラマに地味だが秀作の目立った年でもある。

たとえば『ロルナの祈り』。アルバニア人の女性がベルギー国籍を得ようと偽装結婚したあげく、自らの欺瞞に堪えられなくなり、最後は暗い森に逃げ込む。いずれ追っ手がやってくる。おそらく彼女には死が待つのみ。脚本はとてもいいが、役者たちにちっとも華がないのが難点。とりわけロルナを演じる女優にはもっとマリア的な魅力がなければ。

トルコとドイツに挟まれた恋人たちの悲劇を描く、ファティ・アキン監督『そして、私たちは愛に帰る』。日本で公開されたのは2008年の12月末だけど、私が見たのは2009年。

とりわけ中東において国境の問題はひどく入り組んでいる。一夜にしてシステムが変更され、国家間の意向に庶民が振り回される。そんな現実を主題とするのが『シリアの花嫁』だ。シリアとイスラエルの国境で行き惑う花嫁と家族の姿をユーモアと哀歓をこめて描く。

アニメによるドキュメンタリーという新機軸を披露したのが『戦場でワルツを』。かつてのレバノン戦争を当時イスラエルの歩兵だったアリ・フォルマン監督自身が回顧する。サブラ・シャティーラの虐殺に関わった記憶がよみがえる。ひとは過去から逃れられない。

レバノン映画『キャラメル』は、ベイルートで活きる女たちの生活を明るく描く。出てくる女性がとてもきれい。生活が安定するとともに、アラビア系の美人が蘇りつつあるようだ。

シリアにしてもレバノンにしても、かつてフランスの委任統治領だったせいでフランス語が通じる。若い世代は英語だが、古い世代はフランス語を流暢にあやつる。ホテルとか、ヘアサロンとか、病院といった公共の場ではフランス語が支配的だ。ようは文化的で上品な席ではフランス語が優勢である。

中東やアフリカの現実を肌身で理解しようとすれば、どうしてもフランス語の知識が必要になる。日本人がこれらの国々に無関心なのは英語しか出来ないからである。アメリカのことしか解らない。国際交流には語学が大事だと誰もが口走るくせに、じつのところ英語のことしか考えていない。


● アメリカという病い

思えば、こうした世界の現実と全く無縁なのがハリウッドである。異様なほどだ。強欲資本主義に真っ向から反対を叫ぶのはマイケル・ムーアぐらいのもので、一般大衆は足元の現実をちっとも見ようとしない。搾取され放題で、自らの社会にたいする批判や反撥が映画に反映されない。しごく自由に見えて、じつは社会の実情を徹底的に隠蔽する、恐るべき検閲システムが働いている。

そんな抑圧的な社会を批判しようとするとき、リアリズムは許されず、なにか人目を欺く意匠を身にまとわねばならぬ。たとえばジェームズ・キャメロン『アバター』のように、娯楽SF大作という外見を取らざるを得ない。究極のSFXを駆使する、現状における3D映画の到達点だ。中身はあきらかにアメリカ文明批判なのだが、これほど技術的に完ぺきだと資本の側も文句をつけられない。カネになるからだ。

『2012』にしても同様で、あれは明らかに身勝手なアメリカ人にたいするドイツ人監督のアイロニーが込められている。解る者には解るが、バカな大衆には解らない。自分らがバカにされているのに、ポップコーンを食いながら、水没する西海岸の特撮映像に驚喜している。

映画がリアリズムを追求しようとすれば、現代の貧困と向き合わざるを得ない。アメリカは自らが呼び招いた世界の貧困から目を背けようと、死に物狂いで映像技術の革新に取り組んでいるように見える。映像というファンタジーにより世界の貧困を糊塗しようとする。『アリス・イン・ワンダーランド』をはじめ、手のこんだ夢物語が今年も次つぎ公開されるようだ。世界全体を巻き込もうとする、恐るべき文化的陰謀だ。究極の自己欺瞞だ。

アメリカのアニメ作品に秀作が目立つのは、このことと無縁ではなかろう。日本と同様、実写映画では現実を映せなくなっている。アニメというかたちで資本の検閲をかいくぐる。

ピクサー&ディズニーが新しい映像技術を開発しながら傑作を連発している。アニメという形態を用いた思想劇と言っていい。どれも脚本が練りに練られている。『ボルト』はもっと評価されるべきだ。社会から押しつけられた幻想を踏破した末に、本当の現実をつかみ直す感動的な物語。大人こそが見て楽しめる。

『カールじいさんの空飛ぶ家』にしてもそう。主人公は若いころ自分ら夫婦に夢を与えてくれた探検家と最後に秘境で対決する羽目になる。敬愛する相手と闘わざるを得ない。というのも、現実はとうに移り変わっているのに、過去の英雄は昔ながらの思想や思念にしがみつき、手に負えぬ妄執の鬼と化してしまったからだ。

もはや世界のどこにも秘境などない。むしろ内なる世界を探求するほうが大切だ。閉じた世界のなかで、いかに開かれた関係を築いてゆくか。

このままでは社会全体が沈没する。カールじいさんは若い世代のために自分より一回り年長の世代と対決せざるを得ない。一見するとファンタジーのように見えて、そんな苦い現実認識を根底に据えている。むろんカールじいさんの最後の闘いは、私たち自身の闘いでもある。

ちなみにカールじいさんは近所の少年の親代わりになる。他人どうしが父子になる。これは『グラン・トリノ』のアニメ版と見れなくもない。実の父が否認されているのだ。


● 日本の没落

日本映画のことなど、語りたくもない。愚劣にもほどがある。世界最低レベルだと言い切れる。

目に見える世界とは異なる、魂の深部で闘われている凄絶な闘争。そんな生命を賭した表現の試みなど今の日本映画にはどこにも見られない。そもそもスクリーンに外国人が1人も出てこない。日本人の若者しかいない。身内の、身内による、身内のための映画だ。

日本民族の劣化は何より映画に表われている。映画が愚劣なのは、そもそも魂胆が下劣だからだ。世の現実と何の関係もない、こんな下らない作品をこれだけ大量に垂れ流しつづける国が果たして今の世のどこにあるだろうか。1年を通して見るべき作品は数本しか残らない。むしろこの悲惨さこそ、私たちが考えるべき何ごとかを示している。

1本選べと言われれば『ディア・ドクター』しかない。今年はこれに尽きるだろう。権威がまるで信じられぬ時代に、真に必要とされる資格とは何かを問う。他人事としてではなく、西川美和監督が自分自身の問題として問う。そこに切実さがある。

これに続くのが横浜聡子『ウルトラミラクルラブストーリー』。作品としては『ジャーマン+雨』(2006年)のほうが優れている。大衆受けを狙い、作品のインパクトが弱まった感あり。青森という土地の持つ霊性を現代的感覚で捉える希有の才能の出現だ。応援したいが、次回作がむずかしそう。器が大きすぎ、西川美和のように巧く立ち回れそうにない。すぐれたプロデューサーが必要だが、それが日本にはいないのだ。

特に目新しさはないものの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は映像の圧倒的な完成度で見せた。『サマーウォーズ』も決して悪くはないのだが、地球の危機を家族が救うという展開がいかにも安直。アニメとしての質は高いが、肝心の思想が浅い。

実写をまともに撮れるのは女性監督だけ。まともな男はみんなアニメだ。思うに、これには理由がある。

大勢の俳優を使いこなすには、監督にカリスマ性とは言わぬまでも権威とか個人的魅力が要求される。撮影所があった時代の監督の権力は絶大だった。システムによりそれが保証されていた。もはやそんな形で監督を立てるシステムはどこにもない。個人が剥き出しのかたちで個人と向き合う。そうなると、ふつうの人ではとても無理。誰も従おうとしない。やむなく芸能人でも引っぱってきて監督させるしかない。有名人の言うことなら喜んで聞くからだ。

女は異性としての魅力(フェロモン)により男を従えることができる。概して日本の若者は女に甘い。これにたいし、今の日本男性は同じ男の言うことを聞く気がない。役所や会社組織ならともかく、たかが映画ごとき。なんであいつの言うことを聞かなきゃいけないわけ?

オレ様がすべて。他人の言うことに従う気がさっぱりない。これではろくに仕事もできないし、映画も撮れない。どうにかまともなやつをかき集め、なだめたりすかしたりして、なんとか映画らしいものを撮る。ろくな映画にならない。才能のあるやつはバカばかしくなり、机に向かい、ひとりでアニメを作る(笑)

だって政治ですらそうなんだ。自分らが担いだ総理大臣に従う気がない。麻生ちんのような正真正銘の知恵遅れを神輿に乗せ、あとは野となれ山となれ。その陰で自分らはお構いなしに、やりたい放題。政権交代後も、怖い小沢さんの悪口ばかり言ってる。ボスに従うのではなく、ボスを利用して自らの利益を追求する。こうした責任逃れのやり口が社会の隅々まで行き渡っている。これでは政治も動かないし、映画も撮れない。

低迷する日本映画と比べ、お隣り韓国は今年も見ごたえのある作品を連発した。やさぐれ中年男の改心を描く『チェイサー』も良かったし、『母なる証明』も有無を言わせぬ迫力だ。人間性の非合理を見つめ、あえてタブーを侵犯する。おそらく背景には韓国のキリスト教文化がある。罪とは何かを真剣に考えている。自分らは罪人ではないかと疑っている。ゆえに狂気を深く見つめる。これにたいし今の日本人は何の根拠もなく自分らが善人だと信じ込んでいる。笑止(笑)

経済においても日本は脱落し、いよいよ今年は中国がアジアの第一人者となる。その勢いを反映するのが『レッドクリフ Part II ―未来への最終決戦』で、たぶんジョン・ウーの代表作となるだろう。文句ない娯楽大作。

中国庶民の生活をセミドキュメンタリーとして描くジャ・ジャンクー『四川のうた』。発展する中国経済の一面を垣間見せはするものの、現実は到底こんな生易しいものではなかろう。ついにアジア経済の覇者になるとはいえ、経済格差の拡大が国内の政治的安定を揺るがすことになるだろう。

落ち目の香港映画のなかでは『コネクテッド』が存外楽しめた。ハリウッド映画『セルラー』の改作だが、香港の起伏ある地形を活かした追跡シーンは場面転換の妙があり、オリジナルより面白い。


● 最後に——

肩の凝らぬ娯楽作としてゾンビ映画『ドゥームズデイ』とアクション映画『96時間』を挙げておこう。

前者は去年公開されたゾンビ(系)映画としてはナンバーワン。後者は、誘拐された娘を追い求め、イカレ親父がパリの街路をぶち壊して暴れ回る姿が大いに笑える。娘なんか持つもんじゃない、と納得させられる。

音楽映画を見るぐらいならコンサートに行ったほうがいいわけだが、肝心のアーティストが死んでしまうとそういうわけにも行かない。それがマイケル・ジャクソン『THIS IS IT』の場合。たんなるライブ映像というより、20世紀を代表するアーティストの創作過程を追ったドキュメンタリー作品である。去年見た映画で、終了後に場内で拍手が沸き起こったのはこの作品だけだ。私たちはそこに確かに現代の聖人の姿を見たのである。

以上から極私的ベストテンを決めるとすれば、以下のようになる。まあ、あんまり深い意味はない。


1位『グラン・トリノ』(死に行く者の贈り物)

2位『THIS IS IT』(現代の聖人伝説)

3位『レスラー』(男の落とし前)

4位『愛を読むひと』(女と社会)

5位『ボルト』(現実に目覚める青年の冒険)

6位『ディア・ドクター』(資格とは何か)

7位『チェイサー』(男の改心)

8位『夏時間の庭』(遺産の継承の不可能性)

9位『花の生涯〜梅蘭芳』(芸事における近代化の痛み)

10位『3時10分、決断のとき』(ラッセル・クロウ最強!)

2009年・新作映画をふりかえる(上)老いゆく世界

● 2009年、映画は何を映していたか

ふと思い立ち、この1年間に見た映画、行った美術展、聴いたコンサートを振り返ろうと試み、ブログやメモをひっくり返すと、やたら厖大なことに一驚する。じつはアップしてないメモが山ほどある。ま、あたりまえだが。講義ノートも毎回書いてるし。

そう言えば、眼のクリクリした女のコが「この授業とても面白いです!来年もよろしくお願いします!」だって。書いてきた。愛いやつ。

今となってみれば、こまごました出来事なんて、ほとんどすっかり忘れている。だから振り返って1年がやけに短いような印象を持つ。ところが記録として残したものを眺めると、やたら色んなところに出かけ、色んなものを見たり聴いたりしてる。読んで考え、書き語っている。1年はとても長い。そりゃあ、年を取るはずだぜ。

まず手始めとして、2009年に公開された新作映画をふり返る(制作年代にはバラつきあり)。去年のことなど言うと鬼に嗤われるとか。ならば鬼よ、嗤え。

すべての映画を見た、というわけじゃない。また見れるわけもない。カネも時間もない。映画にかぎらず「すべて」を見たり読んだりする必要はない。自分の位置から何が見えたか、どう見えたかを明確に認識し、表現するほうが大事だ。誰かひとりの目に見える風景より、多くの人の目に映る様々な光景を持ち寄り、集め、残すほうが大切だ。

評論家や専門家はすべてを見たようなフリ、読んだフリを強いられる。すべてを知っている神のような立場に否応なく立たされる。それは職業上の擬態にすぎず、ウソにすぎない。すべてを知る者など、どこにもいない。むしろ自分を強く、しっかり持ち、眼をよく見開き、見るべきものを見ることが肝心なのである。

2流の知識人にかぎって、この「すべて」の呪縛に捕われている。完ぺきで客観的な知識がこの世に存在するかのように錯覚している。いわば神学的・形而上学的な枠組に縛られている。

知識とはつねに上から与えられるものだった。親とか先生のような偉い人から手渡されるものだった。いい年こいて、そのクセが抜けない。知識を自ら得るものでなく、外から与えられるものと思い込んでいる。自ら創るものではなく、ひとから戴くものだ、と。

事実、人生において自ら知識や知見を創り出した体験が1度もない。つねに他人から戴き、横取りし、消化してきた。あるいは編集してきた。自分の内から知を生み出せるなどと1度も考えたことがない。

本人が迷妄のなかに沈み込んでいるだけならいいが、そんな迷信じみた妄念を人さまにも押しつけようとする。だれか「知の隊長」を捏造し、これに権威を集約させる。その他の者は奴隷扱い。虎の威を借るキツネよろしく、お神輿を担ぎ、知識利権をちゃっかり我が物にする。知の中間搾取である。日本人が自力でものを考えられなくなってしまうのはそのためだ。

神輿の上の権威が本物で、ちゃんとしてるならそれでもよかろうが、そんなことはめったにないわけで。担がれて喜ぶのは阿呆ばかり。ようは扱いやすい間抜けを担ぎ、寄ってたかって金もうけの道具にしてるにすぎない。かつてのライブドアのホリエモンしかり、自民党の麻生チンしかり。踊る阿呆に見る阿呆、おなじ阿呆なら踊らにゃ損&損てか(笑)

幸いネット時代の到来で、こうした王様ゲームの浅ましさが誰の目にも見えるようになった。新聞や雑誌、書籍が売れないのはそのためだ。これまでのようには行かなくなった。真っ当な人間は踊りの輪に加わろうとしない。それに気づかぬ野卑で卑俗な人びと(決まって地方出身者)が相も変わらず死霊の盆踊りを踊っている。景気の2番底がやってくれば、ばたばたと新聞や雑誌が倒れる。言論の壊死はもはや誰の目にも覆い隠せなくなるだろう。

もっとも活字ジャンルの低迷は世界的なもので、文明論的な趨勢である。アメリカの新聞の危機的状況を背景にした作品が『消されたヘッドライン』だった。いまはもっと深刻になっている。無能で無用のジャーナリズ厶がいよいよ退場を迫られている。この数年で世界のメディア状況は劇的に変わるだろう。世界も変わる。

前置きがいささか長くなった。2009年度に公開された映画を振り返り、私たちが今いる世界を概観してみたい。印象に残った作品を挙げながら、思いつくまま感想を書きつらねる。


● 終わらない戦後

去年は古いシリーズ物の復興や、リメイクの傑作が目立った。たとえば『スター・トレック』『007/慰めの報酬』がそう。これらはシリーズの中興の祖となりそう。リメイクでは『3時10分、決断のとき』が抜群によかった。オリジナルと甲乙つけがたい。どちらも傑作。

クリント・イーストウッド作品が2本立て続けに公開された年でもある。『チェンジリング』の悪夢のような展開も衝撃的だったが、やはり『グラン・トリノ』にとどめを差す。老境の男が考えぬいた末、復讐ではなく自己犠牲を選ぶ。愛する者へ最後の贈り物として自らの死をあたえる。主人公がたどる人生の航跡がアメリカそのものの歴史と重なる。かつてジョン・フォードがそうだったように、イーストウッド監督はアメリカを体現する映画作家となった。

個人的には愛を読むひと』。アメリカ映画だが、舞台は戦後ドイツ。映画のデキがどうこう言うより、妙にツボに嵌まってしまった。原作を読み、原書を買い、朗読CDまで買って聴いた。今年授業でフロベール『感情教育』を扱うことにしたのも、この映画の影響だ。

中年に達した男が、青春時代の初恋に引き戻される。かつて愛した年上の女はナチス強制収容所の看守だったと判明する。かれは世界文学の名作を朗読したテープを獄中の女に送りつづける。

近代社会において女と関わることが社会と関わること、ひいては歴史と関わることである。それらは全て社会の再生産のメカニズムに組み込まれている。恋愛とは1つの主体が他なる主体を征服し、自らに屈服させ、隷従させるまでのドラマである。それが政治および戦争の原型となる。スタンダールのような19世紀の作家はこの事実に鋭敏だった。私たちはいまだにそんなドラマの筋書きに捉えられている。

他を支配することで主体たろうとするのを止めること。さもなければ世界に平和は訪れない。それには主体でありながら主体を否定することが必要だ。新しい主体のありかたを模索せねばならぬ。この意味での「脱構築」(デリダ)は戦後社会の要請でもあった。作家ベルンハルト・シュリンクは旧態然としたドイツ社会に捉えられ、ひたすらもがく。その誠実さに打たれた。これが戦後の青春というものだった。

逆に、そんな支配システムを外から暴力的に破壊せんとし、却って自滅に追い込まれたのがドイツ赤軍だ。『バーダー・マインホフ——理想の果てに』は『愛を読むひと』の裏面である。赤軍の組織化された攻撃により国家は震撼とさせられた。もっとも力でシステムは変えられない。社会を維持するものは力ではないからだ。テロルの思想は破綻するほかない。

若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2007年)あたりと比べると、彼我の違いがいかにも面白い。実際に行動することなく、ひたすら訓練をくり返し、その過程で相互不信から仲間割れして自滅する。日本人は国家システムの外で自律的な共同性を構築し、維持することがもはやできない。日本赤軍がどうにか形を成したのは大学生主導だったからだ。大学が最後のコミュニティーだった。そんな時代もとうに過ぎ去っている。

第2次世界大戦は19世紀以来の西洋主導の文明を混乱に陥れた。それは古い文明が終わるかのような幻想を与えた。しかしその背後で古い価値観は生き延び、自らを巧妙に偽装し、大衆消費文明を味方につけて、地球全体を覆い尽くすに至った。

世界戦争とは何だったのか。それはなぜ起こり、なにを私たちに残したのか。この期におよんで私たちは一向に理解できていない。『ワルキューレ』のような古いタイプの戦争映画がいまだに作られている。そんなの結局、善玉と悪玉がドンパチ対決する西部劇のようなもの。そうタランティーノが笑いのめしたのが『イングロリアス・バスターズ』である。もっと悪意があってもよかったはず。タランティーノは誰からも愛される安全パイの人。


● 21世紀の新旧論争

世界戦争の根底には、地球全体を巻き込む近代化の運動をどう捉えるかという世界観の問題があった。グローバルな近代化を主導する側は自らの新しさ&正しさを強調し、敵対する反近代的な陣営をローカルで退嬰的だと決めつける。しかしながら新しいものが成り立つのは古いものがあるからで、グローバルに見えるものも実のところローカルの寄せ集めにすぎない。すべては混じり合い、混交している。

古い価値観と新しい価値観の相克を、カトリック学校という特殊な環境を舞台に象徴的に描いたのが『ダウト——あるカトリック学校で』だった。新しい教会をめざす神父は追放され、古い教会を護持するシスターも信仰の不安に怯えている。

ガス・ヴァン・サント監督の劇映画『ミルク』は、ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク(The Times of Harvey Milk)』(1984年)と併せて見たほうがよい。アメリカ社会の古さと新しさ、暴力性と革新性の混交につくづく考え込まされる。

理念は少数者にしか宿らない。マイノリティーが自らの人権を求め、徹底的に闘う。その闘争により社会の問題点が明らかになり、徐々に改められる。マイノリティーの権利の擁護。これが民主主義の本義である。これにたいし日本では多数者にしか生存権が認められない。少数者は体よく抹殺される。ゆえにこの国では本来の民主主義がさっぱり機能しない。

中国映画ではチェン・カイコー監督『花の生涯〜梅蘭芳(メイ ラン ファン)』を押す。若き梅蘭芳は京劇の近代化に挑み、敬愛する師と対決する羽目になる。自らの意に反し、ついにこれを死に至らしめる。新しい者も古い者も芸能を愛する点では志を同じくし、お互いに認め合っているのだが、世の中全体の動きが彼らを引き裂く。古い社会に近代化がもたらした傷跡を鮮烈に捉えている。

もっとも、こうしたテーマなら、かつての溝口健二『残菊物語』(1939年)のほうがはるかに上だと言えなくもないが、いまや日本映画は見る影もなく凋落してしまった。これほどの水準の作品はもう撮りようがない。チェン・カイコーの後塵を拝するほかはない。


● 老いる文明

古いシリーズの復興やリメイクが目立ったり、老雄クリント・イーストウッドの活躍が目を惹いたりするのは必ずしも良いことばかりじゃない。映画という表現は老いつつある。新しい作品や監督や俳優が出なくなっている。ことは映画というジャンルにかぎったことではない。私たちの文明全体が老いつつあるのだ。べつの言いかたをすれば「成熟」しつつある。

『グラン・トリノ』や『愛を読むひと』に強い共感を覚えたのには個人的な理由がある。というのも、2年前からはっきり老化を意識した。オレの青春は終わった、そう観念した。ところが回りを見渡してみると、老いたのはオレばかりじゃない。なんと、いちばん辛気臭いのは世の若者だ(笑)社会全体が老化した。

どうやら自分の個人史が社会と連動しているようだ。自分のが終わったばかりじゃなく、人類全体の青春が終わった。そう見なしたほうがよさそうだ。

じつのところ「歴史の終焉」(A・コジェーヴ)とは青春の終焉を意味する。外に向けて拡張し、相互承認をもとめて覇を競う。そんな青年期を過ぎ、いよいよ人類は中年、ひいては老年を迎えようとしている。相互に融和し、共生しようとしている。仇敵が縁側でお茶でも飲みながら昔話をする。そんな世界が訪れようとしている。かくしてオレは老いゆく一個人であると同時に人類の運命そのものだ。来たるべき老いと死を正面から考えねばならない。自らの問題として。人類全体の課題として。

じつは『レスラー』がまさに壮年の覚悟を問う映画だった。かつてのプロレスの英雄時代はとうに過ぎ去った。ひとつの時代があきらかに終わろうとしていて、にもかかわらず新しい世がどうなるのか、誰にも見えない。そんな宙ぶらりんの時代に古い不器用な男が自らの信じた道に身を捧げる。それ以外の途はない、と覚悟を決める。自ら退路を断ち、深淵にダイブする。これが漢(おとこ)の人生というもの。涙、涙、涙。

最近のフランス映画としては出色の『夏時間の庭』。この作品の主題も老いであり、死である。郊外で独り暮らしの母親が死ぬ。子供たちは戸惑う。残された遺産をいかに継承するか。

いざとなると、それができない。親が残したものを子が引き継げない。過去の遺産を継承するのがもう不可能になっている。伝統が断ち切られてしまったからだ。その痛々しさを郊外の豊かな自然を背景に描く。これはフランスにかぎったことではなかろう。誰もが薄々勘づいていることだ。むしろフランス人だからこそ、その痛みに鋭敏なのだ。

この映画では、死んだ母親の家を処分し、子供たちは自分の仕事のために世界各地に散って行く。資本のグローバル化とともに、世界中のあらゆる民族にディアスポラが起こっている。資本により国境が侵犯され、貧しい者は難民化して世界に散らばる。国境を越えられぬ者は、その手前で斃死するほかない。富の一極集中と裏腹に、いたるところで貧困が広がっている。(つづく)

つぶやき正月2010

● 仕事始め/1月5日

酒と風呂とDVDの極楽正月。気づけば、家の近くに何でもある。正月から最高のラーメンが食える。文明の進歩のありがたさ。おせち料理なんか、要らないよなあ。

などと言ってるうちに、もう仕事始めだあ!


● 年の功/1月5日

オレにはもうフェロモンが出なくなってしまったああ。。と嘆いていたが、別の場所から別の光線が出せることに気づいたなり。ものは考えよう。うほうほ。

「出る」ものではなく「出す」ものが大切。それにはテクを磨かねば。うはうは。


● 金杯のことは忘れる/1月5日

和田の馬で逃げ切れると思ったが。ライブコンサート岩田には脱帽。


● イヤだ、イヤだと思いつつ/1月6日

朝6時起き。

ユニクロのカラフルな下着に全身を包むと、しばし気持ちが和らぐ。からーひーりんぐ。なんちて。

もはやオレは完全にユニクロの軍門に降った。情けなや。

♪ 時の流れに身をまかせ、ユニクロの色に染められ〜


● ネットカフェなう/ 1月7日

このところ映画館で見たい映画がさっぱりない。

だからというわけでもないが、ネットカフェにDVDを持ち込んで見ている。家だとモノに囲まれ気が散って仕方ないが、ネットカフェだと画面にただ見入るしかなく、集中できる。最新式のマッサージチェアに背中を揉まれながら去年見落とした映画などをつらつら見てると、なんとも豊かな気分になる。

それらの映画評にかんしては、いずれまとめてアップする予定。良い作品がたくさんある。


● あ、そうか!/1月9日

そういうことだったのか。こうすればよかったンだ!と、ふと気づいた時はえてして後の祭り。

まあ、人生ってやつは、そんなもの。できることはできるし、できないことはできない。気づけばできてたり、いつまでもできなかったり。相手のあることは、どれもそんなもの。いかんともしがたい。

できることを、できるかぎりで、やりつづけるのみ。うまく行くこともあれば、行かないこともある。いたずらに動揺することなく、平常心を保ち、次のチャンスを待つ。これが賭けごとの極意なり。

帰り、ネットカフェで、ルー・リードのライブDVD『ベルリン』と、立川談志の落語『芝浜』『野晒し』等を見る。ルー・リードの電気ギターが圧倒的にいい。「ロック・メヌエット」など最高。

それと、談志の才能には改めて感嘆する。ゴダールやグールドみたい。20世紀の人類文化において伝統との関係が変わった。その変化の代表者のひとり。でも、ちゃんとした談志論って、あるのかネ? 弟子や崇拝者の誉め殺しのようなやつばかりのような。

疲れて、スパで夜までぶらぶら。


● いまオレの目の前には/1月9日

○ 無濾過純米 開運 生酒
○ しぼりたて生原酒 純米酒 美丈夫

――と、2本の空きビンがある。どちらも日本酒らしく、口に含むと豊かで、ふくよかなボディを感じさせた。やはり「ナマ」はいい。

あと残った「黒龍」を開けると、今年の正月は終わる。

アフリカの衝撃

●「アフリカの衝撃」@週刊東洋経済

今週号はアフリカ経済の特集だ。とてもよく調べている、出色のデキ。手持ちぶさたの行き帰りの電車で、つい熟読してしまった。

資源の宝庫であるアフリカは、人類の最古にして最後のフロンティアである。ヨーロッパはこれまでアフリカをもっぱら搾取の対象としてしか見てこなかった。相手を同じ人間と見なしてこなかった。むろん旧宗主国としての影響は強く残るものの、かつてのような威光はもう望むべくもない。現地の人たちは相手の正体を知り尽くしている。その間隙を突き、なりふり構わず中国が入り込んでいる。お上品な日本は手をこまねいて見てるのみ。

てか、自分らのことをいまだ準白人と見なし、本当の意味では相手を同等の人間扱いしてない。人間は平等だ、という真理がいまだ納得できずにいる。中国はそんな選り好みを一切しない。商売の相手になるかぎりで平等だ。日本企業が敵うわけがない。

いまや大新聞でさえ、これからはアジアの時代だと認めざるを得なくなり、数々の特集記事が組まれる。しかしアジアの時代はアフリカの時代でもある。アジアが持続発展しようとするなら、アフリカを自らの陣営に取り込まねばならぬ。中国はその準備に余念がない。

一方、日本はようやくアジアが目に入ったばかり。アフリカのことなど、ほとんどまともに考えてこなかった。白人の仲間入りすることしか考えてこなかった。いまだに年寄りはみんなそう。が、それではにっちもさっちも行かなくなっている。

アジアの時代は同時にアフリカの時代でもある。それは大いなる価値転換を意味する。近いうちに欧米中心の世界秩序が転覆する。この来たるべき現実に目をふさぎ続けるかぎり、日本経済に未来などなかろう。欧米とともに速やかに沈没するだろう。

相手が自分と同じ人間だと気づくには相手の文化を知る必要がある。実際には音楽や美術や映画というかたちで、アフリカの人たちの心の世界を知るすべは多々ある。経済と文化は切り離せない。人間には心があるからだ。そこから経済も始まる。

むろん言葉は大事だ。英語だけでは全然ダメだ。アフリカの伝統的な知識層はフランス語を使う。フランス語を知らないと支配層にアプローチできない。

「東洋経済」は相変わらず狭義の経済しか視野に入れていない。経済誌だから経済だけ扱えばいいというものではなかろう。それは経済誌の限界であるという以上に、戦後日本の知性の限界でもある。いいかえれば欧米の資本主義経済をモデルとし、白人中心主義の文明を有り難がってきた、近代日本の国家としての限界である。英語しかできないし、世界をアメリカ人の目で見てしまう。

中国には中華思想があり、自分が世界の中心だと考えている。欧米がどう考えるかなんて知ったこっちゃない。好きに動く。中国の商人は考える前に手が出る、足が出る。これに比べ日本人はいつもアメリカの顔色を窺っている。中途半端に賢いので、結果として愚かしく実りなき努力をくり返す。

この白人もどきとしての限界を打破せぬかぎり、たとえアジアの時代がやってきたとしても、日本だけが取り残されるだろう。欧米とともに衰退するだろう。てか日本の衰亡はもう歴然としている。この窮状が目に入らぬ者のほうがどうかしている。

アメリカしか目に入らない。アメリカ英語しかできない。ヨーロッパのことも実はよく解ってない。それで何とかなる、国際人だと自惚れている。得意満面でスーザン・ボイルに話しかけても、ちっとも通じない(笑)あたりまえだ。イギリスの労働者階級の英語は独特で、アメリカ英語とは全然ちがうからだ。

世界とは欧米のことではなく、欧米「以外」の国々のことである。たとえば、それがアフリカ諸国だ。この肝心な点がさっぱり見えない。見ようともしない。今年はワールドカップなのに。いまだに龍馬よろしく「海の向こうに、えげれすが見える」とかやってる。坂の上にあるはずの幻想の欧米に追いつこうとして、死に物狂いで空回りしている。

いやはや、日本の夜明けは遠いぜよ。

大晦日から元旦まで

大晦日、どこかソバでもやってないかな?と銀座をブラブラしてたら、なんと立ち食いの名店「恵み家」が営業中。大晦日なのにやってない心得違いの蕎麦屋が目立つ中、見上げた心意気と言えよう。正しい。りょくけん@松屋の蕎麦は売り切れで手に入らず。日本一うまい蕎麦なのだが。

今年はおせちはやめた。さすがに飽きた。緊縮財政のご時世でもあるし。とはいえ、それなりのものはアラカルトで買う。閉店間際を狙い、地元のデパートで真鯛とハマチ各5千円が合わせて3千円に値引きしているのを買う。築地で仕入れた魚はたしかにちがう。ハマチなのに、コリコリし、やたら淡泊で上品な味。美味い。

かまぼこ等も例年通り、半額で仕入れる。餅と海苔と辛子明太子は家に腐るほどある。それと今年は田舎からドカンと送ってきたミカンがやたら美味い。毎日5〜6個食っている。

大晦日恒例のダウンタウンの番組を見ていたが、あまりにダラダラ長い。うとうとする。途中で紅白の永ちゃんと、魔裟斗の引退試合を見る。つい眠り込む。

気づいたら夜1時すぎ。新年になってしまっている。今田&東尾が司会するお笑いを少し見るも、磯自慢の酔いに勝てず、そのまま爆睡。大晦日はテレビを死ぬほど堪能することにしてるのだが、今年は酒がやけに効いて、ろくすっぽ見れなかった。ちと残念。ま、テレビが下らないのも事実。いくら何でも、もう少し新機軸というものはないんか?

正月早々ラーメン劇場でイベントとのこと。「福たけ」がセカンドブランド「山ねこ」の濃厚中華そば(700円)を提供している。

このところ流行中の煮干しを使ったドロドロのスープだ。臭みがなく、とても美味しい。ただ「なおじ」@目黒あたりと比べると量が少なく、具もほとんど入ってない。これで700円は割高。

帰りにスパで初風呂。露店風呂が広く、興趣に富む。これにたいし、内風呂はあまりバラエティがなく、洗い場もスペースが狭く、くつろげない印象。この荒涼とした最果ての地に、どこにこんなに人がいたか?と驚くほどの客の入り。人びとは温かみを求めているのであろう。

レンタルビデオの店員の対応もよく、満ち足りて帰宅するなり。考えてみれば、来週から補講期間で、そうウカウカしてらんない。てか、のんびりしてる場合などでは全然ないのだが脳軟化状態で何もできない。はふん。

それにしてもテレビがつまらない。正月テレビ欄を見ても、十年一日とはこのこと。つまらない。これは今の日本社会の反映なのだろう。端的に言って、表現が死んでいるのだ。

というか「殺されている」と言うべきか。もうどこにも表現というものが見られない。潜水服に閉じ込められたまま、ひとつの民族が深淵に呑み込まれて行く。残った酸素が切れたら、窒息してお終いだ。

トラだトラだ、オレはトラになるのだ!

プロフィール

蕩尽亭

Author:蕩尽亭
大塚日記→ライコス→マイぷれすと流れてきた。流浪の哲学者、蕩尽伝説のブログである(哲学・文学・映画・芸術・競馬)

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
蕩尽伝説
蕩尽伝説
現在の閲覧者数:
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR